☆清洲城の歴史を訪ねる。
☆清洲城
☆門
☆入り口
☆模擬天守
☆歴史の説明
☆清洲城
通称: 清須城
城郭構造: 平城
天守構造: 不明
望楼型3重4階: 1989年RC造模擬
築城主: 斯波義重
築城年: 応永12年(1405年)
主な改修者: 織田信長、織田信雄
主な城主: 斯波氏、織田氏、豊臣氏、福島氏、徳川氏
廃城年: 慶長15年(1610年)
遺構: 移築現存櫓(名古屋城)、土塁
指定文化財: なし
再建造物: 模擬天守
☆清洲城
応永12年(1405年)、尾張・遠江・越前守護の管領斯波義重によって築城。
当初は、尾張守護所である下津城の別郭として建てられたが、文明8年(1476年)
に守護代織田家の内紛により下津城が焼失し、文明10年(1478年)に守護所が
清須(=清洲)に移転することで尾張国の中心地となった。一時期、「織田弾正忠家」
の当主織田信秀が清須奉行として居城した以外は常に清洲織田氏(織田大和守家)
の居城としてあり、尾張下四郡を支配する守護代織田家の本城として機能した。
織田信秀が、古渡城に拠点を移すと守護代織田信友が入城したが、弘治元年(1555年)
織田信長と結んだ織田信光によって信友が殺害され、以降信長が那古野城から移って
大改修を加えた後、本拠として居城した。信長は、この城から桶狭間の戦いに出陣する
など、約10年間清須を居城とした。1562年(永禄5年)には信長と徳川家康との間で
同盟がこの城で結ばれた(清洲同盟)。永禄6年(1563年)には美濃国斎藤氏との戦に
備えて小牧山城に移り、以後は番城となった。
天正10年(1582年)の本能寺の変で信長がたおれると、清洲城にて清洲会議が行われ、
城は次男・織田信雄が相続した。天正14年(1586年)に信雄によって2重の堀の普請、
大天守・小天守・書院などの造営が行われている。小田原征伐後の豊臣秀吉の国替え
命令に信雄がさからい、除封され、豊臣秀次の所領に組み込まれた後、文禄4年
(1595年)には福島正則の居城となった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの折りには、東軍の後方拠点として利用され、
戦後は安芸に転封した福島正則に代わり徳川家康の四男・松平忠吉が入るが、
関ヶ原の戦傷がもとで病死すると慶長12年(1607年)には家康の九男徳川義直
が入城し、清洲藩の本拠となった。
慶長14年(1609年)徳川家康によって、清須から名古屋への遷府が指令されると、
慶長15年(1610年)より清須城下町は名古屋城下に移転され(清洲越し)、
清須城も名古屋城築城の際の資材として利用され、特に、名古屋城御深井丸西北隅櫓
は清須城天守の資材を転用して作られたため「清須櫓」とも呼ばれる。慶長18年
(1613年)名古屋城の完成と城下町の移転が完了したことにより廃城となる。
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